日本の観光ショーケース

紀州 和歌山県和歌山市

紀州にも忍者がいた

徳川吉宗が設けた御庭番は、
紀州忍者の末裔だったのではないか
と考えられています。
紀州藩には諜報活動を担った
薬込役という役職があり、
それが江戸に行って「御庭番」になった
と言われています。
和歌山は、「御庭番」の発祥となった忍者と
三大忍術書のひとつ『正忍記』を生んだ、
忍者にゆかりの深い地域です。

大阪からのアクセス

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和歌山城

徳川御三家の威容にふさわしい風格を醸し出しています。天正13年(1585)に豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。 その築城を担当したのが、のちに築城の名人と言われる藤堂高虎らでした。そして、元和5年(1619)には徳川家康の10男・頼宣が入城し、 紀州55万5千石の城となり、以来、水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。

恵運寺

紀州徳川家と初代藩主徳川頼宣公の武運長久を祈願する為、山本勘助ゆかりの山本圖書正春が「大宝山廣厳寺」を建立したのがはじまりです。 その後恵運寺と改名し、徳川家のみならず、万民の開運招福、無病息災、天下安寧福楽を祈願する寺院となりました。 日本三大忍術書「紀州忍術・正忍記」の著者、名取三十郎のお墓があることから、写経体験などをすることもできます。

本願寺鷺森別院

雑賀門徒の拠点でした。雑賀衆の熱心な崇敬を受け、本願寺が、織田信長を相手に、自衛のための戦争に立上がると、 雑賀衆は支えとなりました。本堂内には、正面にご本尊の阿弥陀如来が安置された祭壇があり、祭壇の両側にある襖には、 鷺ノ森の地名の由来でもある鷺の絵が描かれています。

正忍記

1681(延宝9)年に紀州藩軍学者の名取正澄によって書かれたとされる忍術書です。忍びの教育のためだけではなく、 名取流軍学の一部として門弟に伝授されていたと考えられています。万川集海、忍秘伝と合わせて、三大忍術伝書と言われています。 現在、恵運寺では「正忍記を読む会」を立ち上げて、正忍記の精神を現代に活かす取り組みを行っています。

矢宮神社

雑賀孫一が戦いの際に用いたとされる「ほら貝」が、今も保管されている。古くから「賀茂建角身(カモタケツヌミ)之命」を祀っていたといわれ、 江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』によればこの神が「矢田氏」の祖である故に当社を「矢宮」と称するとしています。

妙見山(雑賀城跡)

雑賀城は雑賀衆の本拠地で、孫一の父、鈴木佐大夫によって築城されたと伝えられます。 標高約32mの妙見山に設けられたことから妙見山城の別名でも知られています。 城跡であることを示す明確な遺構は残っていませんが、山頂部は千畳敷と呼ばれる広大な平坦地が広がり、 ここに城館を築いたものと考えられています。

秋葉山(弥勒寺山)城跡

本願寺鷺森別院ができるまで紀伊国の一向宗の中心地。「雑賀合戦」の舞台となった城で、石山本願寺に協力し、 織田信長に抵抗した雑賀衆の棟梁・雑賀孫市(孫一)が本陣を置いたお城です。山頂の展望台からは和歌山城も見えるなど、 周囲を一望できます。1585年(天正13年)には羽柴秀吉による「紀州攻め」がおこなわれたが、このときの史料には現れないため 「雑賀合戦」の時点で廃城となったと考えています。

太田城址(来迎寺)

太田城は、別名舞鶴城とも呼ばれ、約470年間にわたって佐竹氏が居城となっていました。佐竹氏三代隆義が入城する日に、 鶴が城の上空を舞いながら飛んでいたことから「舞鶴城」と呼ばれるようになりました。日本三大水攻めのひとつに数えられる 「太田城の戦(太田城水攻め)」の舞台となった、太田城の跡。羽柴秀吉10万余人に対し雑賀衆約5000人が城に立てこもり、水攻めが行われました。

代表的な紀州忍者

名取三十郎正澄

江戸時代初期の紀州藩の軍学者で、紀州藩主徳川頼宣の軍学指南役として仕えました。 「正忍記」という書物を書いたことで知られています。

「太平記英雄伝」東京都立図書館所蔵

雑賀孫一

旗印に「八咫烏」を掲げ、「雑賀鉄砲隊」を率いたのが、鉄砲の名手雑賀孫一です。 大坂本願寺の戦いでは雑賀衆を率いて織田信長と対抗した事が伝えられています。

関西地方の忍者紹介