忍者
歴史や文化、修行の伝統から忍術の科学的背景まで、
世界的に評価される日本の忍者文化。
その中でも特に高く評価されている
忍者の歴史と修行の旅を紹介します。
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エリア別スポット紹介
甲信越
EAST
甲信越地方の忍者は、山岳地帯での隠密行動や情報収集を得意とし、地域ごとに異なる流派と技術が伝承されています。
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戸隠 / 長野県長野市
戸隠山は、役小角によって修験道場が開かれ、多くの山伏たちが荒行を重ねてきました。木曽義仲に仕える前は、戸隠で修験道に励んでいました。戸隠周辺で平家との戦の際、北信濃裾花川の上流の岩窟に陣取って指揮を執ったとされています。木曽義仲が討死したあと、仁科大助は伊賀へ逃れ、伊賀流忍術を学びました。そして仁科大助は、伊賀流忍術を取り入れて、戸隠流忍法を完成させたと言われています。
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真田 / 長野県上田市
真田忍者は、武田信玄の時代から、忍者「三ツ者」として仕えていました。彼らは忍者の養成に力を入れ、当時信州と上州の地の忍者の数は1,000人を超えていたと言うことです。武田氏が滅んでからは、真田家に仕えて活躍します。吾妻の地には修験道に関連する寺が52 か寺も存在しており、山伏の聖地でした。伊賀や甲賀が傭兵集団として、誰に支配下にも入らなかったことに対し、信濃や上野の忍者は武将に仕えていました。
関東
EAST
関東地方の忍者は、情報収集や偵察、暗殺、破壊工作など多岐にわたる任務を行っていました。現在でも忍者に関する文化や伝説が残り、多くの人々に親しまれています。
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真田 / 群馬県東吾妻町
真田忍者は、武田信玄の時代から、忍者「三ツ者」として仕えていました。彼らは忍者の養成に力を入れ、当時信州と上州の地の忍者の数は1,000人を超えていたと言うことです。武田氏が滅んでからは、真田家に仕えて活躍します。吾妻の地には修験道に関連する寺が52 か寺も存在しており、山伏の聖地でした。伊賀や甲賀が傭兵集団として、誰に支配下にも入らなかったことに対し、信濃や上野の忍者は武将に仕えていました。
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小田原 / 神奈川県小田原市
風魔は北条氏に仕え、戦闘に参加し、騎馬を得意とするほか、集団で行動をし、ゲリラ戦を得意としていました。風魔忍者については、風魔忍者の頭領は代々「小太郎」を名乗り風魔を取りまとめ、北条家を陰から支えました。風魔忍者に関わる文献はほとんど残ってなく、多くの謎に包まれています。
東海
EAST
東海地方の忍者は、戦闘に長けた者が多く火薬を扱う「火術」や護身や厄除けの「呪術」を得意とし、数々の戦に貢献していたといわれています。
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伊賀・名張 / 三重県伊賀市・名張市
伊賀忍者は特定の家に使えることはなく、各地の戦国大名に従軍して、傭兵として出陣していました。忍術や戦闘能力に秀でている者が多く、数多くの戦で貢献したといわれています。彼らは修験の山にこもって厳しい修行をし、自ら精神や肉体を鍛えていたと考えられます。戦場では情報収集を中心に、夜襲や忍び込みや放火を行い、鉄砲の扱いにも長じていたとされています。
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甲賀 / 滋賀県甲賀市
甲賀では、都に近かったため、常に情報収集に努めました。各地の大名に請われ、「忍び」の働きをしました。甲賀には修験道の一大霊場、飯道山があり、今も山伏たちの姿に、リアルな「忍者」が感じられます。山伏の行場を巡ると、自然を相手に練磨をした忍者の姿を追体験できます。里には、甲賀衆が崇敬した古社があり、神秘性や呪術性をうかがえます。
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愛知 / 愛知県
愛知県にゆかりのある服部半蔵と言えば、忍者のイメージが強いですが、徳川家に仕えた武士でもあります。本能寺の変が起こった際、「神君伊賀越え」で功績のあった服部半蔵が尾張国鳴海宿で取り立てられた200名の伊賀者の頭領となりました。この忍者隊は、尾張国鳴海で取り立てられたことから「鳴海伊賀衆」と呼ばれました。
関西
WEST
関西地方の忍者は、薬草や医学の知識に長けており、毒薬を用いた奇術を得意としていました。「薬売り」に扮して情報収集をしていたともいわれています。
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岸和田 / 大阪府岸和田市
並松町、紀州街道の一本浜側に「忍町」というエリアがあり、甲賀者屋敷が並んでいました。「御忍役人」というような名称でよばれていた甲賀者が50人も雇われていたこともわかってきました。「甲賀五十人」と呼ばれる忍者集団は、日ごろは農民として暮らし、砲術の訓練や火薬の製造を行っていました。有事の際ははせ参じ、藩主の警護に当りました。
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紀州 / 和歌山県和歌山市
徳川吉宗が設けた御庭番は、紀州忍者の末裔だったのではないかと考えられています。紀州藩には諜報活動を担った薬込役という役職があり、それが江戸に行って「御庭番」になったと言われています。和歌山は、「御庭番」の発祥となった忍者と三大忍術書のひとつ『正忍記』を生んだ、忍者にゆかりの深い地域です。
中国
WEST
中国地方の忍者は、火薬の製造や鉄砲の使用に関する知識「火術」に長けており、各地の大名が勢力を拡大するために活用していたといわれています。
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松江 / 島根県松江市
「堀尾期松江城下町絵図」には、伊賀久八などの名前が書かれていることから、伊賀者が住んでいたことがわかります。天正伊賀の乱の際に伊賀から逃れ、浜松の堀尾吉晴に召し抱えられ、関ヶ原の戦いに参加し、吉晴の松江入府とともに松江で伊賀者として仕え、大坂夏の陣には鉄砲隊として参加しました。「堀尾家給帳」には40人の忍者衆(伊賀衆)、40人の鉄砲集(雑賀衆)、そして580人の鉄砲足軽を抱えていたと記されています。
九州
WEST
九州地方の忍者は、情報探索などの密偵や剣術などを得意としていました。領地が多く、戦が頻繁に行われたため忍者の需要も高かったと考えられています。
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嬉野 / 佐賀県嬉野市
嬉野は、長崎から佐賀へ抜ける交通の要衝であり、西の有馬氏・東の龍造寺氏が、激しく争いました。唐泉山を擁する修験道の聖地、経済拠点の塩田津もある事から、「人・物・情報」が集まりやすい土地でした。歴史的に見ても、忍者が活動していた可能性が高いのです。江戸時代には佐賀藩の支藩である蓮池藩の領地となり、異国船が度々長崎に現れるようになると、外国船の情報を探るため密偵が派遣されました。これも忍者の活動と言えるでしょう。